与一くんProfile
- 本名 那須与一宗隆(なすよいちむねたか)
Yoichi Munetaka Nasu - 誕生日 不明
- 誕生の地 大田原市
- 家族 那須資隆(すけたか)の十一番目の男の子として生まれる。
- 兄弟 *別欄に記載
- 没 病死(京都伏見にて、即成院に埋葬)
- 文治5年(1189)8月8日説
(那須隆氏蔵の那須系図、那須拾遺記) - 建久元年(1190)10月説
(続群書類従の那須系図) - ゆかりの地
平家物語 源平屋島の合戦 「扇の的」
・・・時は文治元年(1185年)2月18日、午後6時頃のことだった。折から北風が激しく吹き荒れ、岸を打つ波も高かった。船は揺り上げられ揺り戻されているので、扇も少しも静止していない。沖には平氏が一面に船を並べ、陸では源氏がくつわを並べて見守っている。
(中略)
与一は目を閉じて、
「南無八幡大菩薩、別しては我が国の神明、日光権現、宇都宮、那須湯泉大明神、願はくはあの扇の真中射させてたばせ給へ。是を射損ずる程ならば、弓切り折り自害して、人に二度面(ふたたびおもて)を向かふべからず。今一度本国へ向かへんと思し召さば、此の矢はづさせ給ふな」
と念じて、目を見開いてみると、風はいくぶん弱まり、的の扇も射やすくなっているではないか。与一は鏑矢を取ってつがえ、十分に引き絞ってひょっと放った。小兵とはいいながら、矢は十二束三伏で弓は強い。鏑矢は浦一帯に鳴り響くほどに長いうなりをたてながら、正確に扇の要から一寸はど離れたところを射切った。鏑矢はそのまま飛んで海に落ちたが、扇は空に舞い上がったのち春風に一もみ二もみもまれて、さっと海に散り落ちた。紅色の扇は夕日のように輝いて白波の上に漂い、浮き沈みする。沖の平氏も陸の源氏も、これには等しく感動していた。
与一くんが頼朝からもらったご褒美の荘園
屋島の戦いの後、平氏は壇の浦の戦いにも破れ、滅んで行きました。与一は扇の的を射た褒美として、源頼朝より那須氏の跡継ぎの地位と五カ国内の荘園を与えられました。
- 丹波国五賀庄(京都府船井郡日吉町)
- 信濃国角豆庄(長野県松本市、塩尻市)
- 若狭国東宮河原庄(福井県小浜市)
- 武蔵国太田庄(埼玉県行田市、羽生市)
- 備中国絵原庄(岡山県井原市)*大田原市との友好親善都市
兄弟一覧表
太郎光隆(てるたか) | ・・・南那須町森田に分地 |
次郎泰隆(やすたか) | ・・・大田原市佐久山に分地 |
三郎幹隆(もとたか) | ・・・那須町梁瀬字芋斑に分地 |
四郎久隆(ひさたか) | ・・・湯津上村片府田に分地 |
五郎之隆(ゆきたか) | ・・・大田原市福原に分地 |
六郎実隆(さねたか) | ・・・烏山町滝田に分地 |
七郎満隆(みつたか) | ・・・矢板市沢に分地 |
八郎義隆(よしたか) | ・・・黒羽町片田に分地 |
九郎朝隆(ともたか) | ・・・矢板市豊田に分地 |
十郎為隆(ためたか) | ・・・茂木町千本に分地 |
与一宗隆(むねたか) | ・・・那須家家督を継ぐ |
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