かつて日本では、盛んに『とうがらし』が栽培されておりました。最も盛んだった昭和38年ごろには年間約7,000tもの国内生産量があり、海外にも輸出されておりました。そのピーク時を支えたのは、ここ大田原で、当時は全国生産量NO.1を誇るほどの有数の唐辛子産地だったそうです。
『大田原』と『とうがらし』の出会いは、昭和初頭の頃のことです。東京新宿にてカレー粉用唐辛子の製造販売に従事していた吉岡源四郎氏(吉岡食品工業(株)・創設者)は、当時唐辛子栽培の拠点としていた武蔵野周辺での運営に限界を感じておりました。吉岡氏は、耕作地拡大並びに品質改良を図るため、広大な耕地を備える栃木県に拠点を移し、那須地方を手始めに農家への栽培依頼を始めました。この活動に栃木県が大きな興味を示します。外貨獲得のための輸出農産物が乏しかった栃木県にとって、唐辛子は極めて魅力的な作物に映ったようです。補助金を含めた栃木県からの全面的なバックアップを受けた吉岡氏は、自身も栃木県・大田原に移住し、当地での大規模な栽培普及に乗り出します。
その後吉岡氏は、太平洋戦争の混乱期に耐え忍びながら唐辛子の品種改良に心血を注ぎました。そして昭和30年、とうとう品種改良に成功し、それまでなかった素晴らしい品種を発見します。吉岡氏は、それを「栃木改良三鷹(以下栃木三鷹と略記)」と名付けました。栃木三鷹の特徴としては、@辛味が強い、A色調が良い、B形状が揃っている、C収穫量が多き、D摘み取り・乾燥などの作業が容易、E保存に強い などが挙げられ、栽培・流通する上で非常に優れた品種であることがわかります。その優れた特性から、栃木三鷹はその後あっという間に世間へ広まっていき、唐辛子における優良品種ブランドとしての地位を築いていきました。現在、日本で作られている一味・七味に使われているのは、ほとんどがこの品種からの唐辛子のようです。
栃木三鷹の発見により、大田原での唐辛子栽培は飛躍的に増え始めます。栽培は昭和30〜40年ごろに全盛期を迎え、当時はその生産量において全国でもNO.1のシェアを誇っておりました。また、市内では特に佐久山地区での栽培が盛んで、この地区では唐辛子の実が綺麗に色を付ける10月中旬頃になると畑が真っ赤に染まり、まるで「赤い絨毯」を敷き詰めたような美しい光景があたり一面に広がっていたそうです。唐辛子は、当初の県の期待通り、主要な輸出農産物として大活躍するようになっていったのです。
大田原と唐辛子は切っても切り離せない 赤い糸で結ばれているのです。
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